東京地方裁判所 昭和44年(刑わ)700号 判決 1970年1月16日
主文
被告人板橋達郎を懲役一年六月に処する。
被告人古根村一茂を懲役二年六月に処する。
被告人石岡弘行を懲役一年六月に処する。
被告人中原逸雄を懲役一年六月に処する。
被告人北原裕久を懲役一年一〇月に処する。
被告人西堀公三を懲役一年六月に処する。
被告人越前屋晃一を懲役一年一〇月に処する。
被告人早野光子を懲役一年に処する。
被告人全員に対し、未決勾留日数中二〇〇日を右各本刑に算入する。
この裁判が確定した日から被告人中原逸雄に対し三年間、被告人早野光子に対し二年間右各刑の執行を猶予する。
訴訟費用は一三分し、その一を各被告人に負担させる。
理由
(一) 罪となるべき事実
被告人らは、いずれも法政大学の学生であつて、昭和四四年一月当時被告人古根村は中核派の指導者、その余の被告人らはいずれも同派など反代々木系の派閥に所属もしくは同調していたものであるが、被告人らは、かねて東京大学における学園紛争にさいし、同大学全共闘会議派の学生らを支援するため、同学生らによつて占拠されていた東京都文京区本郷七丁目三番所在同大学安田講堂をほか多数の学生らとともに引きつづき占拠しようと考え、
第一 被告人らは、
(一) 昭和四四年一月一七日ころから翌一八日午前七時ころまでの間、同講堂において、多数の学生らが同講堂の占拠者を排除しようとする警察官らに対し共同して投石、殴打などの暴行を加える目的をもつて多数の石塊、コンクリート塊、角材、鉄パイプ、火炎びんなどを準備して集結したさい、同様の目的のもとに右石塊、角材など多数の兇器の準備あることを知つてこれに加わり、
(二) ほか多数の学生らと共謀のうえ、同月一七日午後一一時二〇分ころ前記講堂を看守する東京大学総長事務取扱加藤一郎からすみやかに同大学本郷構内に退去するよう要求を受けながらこれに応ぜず、正当な理由がないのに同月一九日午後まで右講堂に留まり、もつて故なく退去せず、
第二 被告人板橋、同古根村、同石岡、同中原、同北原、同西堀、同越前屋は、ほか多数の学生らと共謀のうえ、同月一八日午前七時すぎから翌一九日午後までの間前記講堂において、右不法占拠者を排除、検挙する等の任務に従事中の警視庁第五機動隊等所属の警察官らに対し、多数の石塊、コンクリート塊、火炎びん等を投げつけ、あるいは角材、鉄パイプで突くなどの暴行を加えもつて右警察官らの右職務の執行を妨害し
たものである。
(二) 証拠の標目<略>
(三) 犯罪事実認定についての問題点
判示事実は、前掲各証拠を総合すればその証明は十分であるが、なお次の諸点について証拠上の補足説明を加える。
(1) 兇器準備集合罪における共同加害の目的について。
ここに共同加害という、いわば被告人らの内心の目的意図については、供述している被告人板橋を除いて、その余の被告人らについてはその供述がないかぎり、被告人らが、判示第一(一)のとおり安田講堂において、すでに集合していた多数学生らの集団に加わつた時点またはその前後における客観的状況、被告人らのそのころにおける言動等により、これを判断するほかない。ところで、これに関し、前掲各証拠によつて考察すると、つぎの各事実が認められる。
1 当時、被告人らの所属または共鳴する反代々木系学生集団と民青系の学生との間の主導権争いから一触即発の緊迫した事態を生じ、これがため警察官の導入が、もはや時間の問題だという客観的状況にあり、被告人らもこれを十分知つていたとおもわれること。現に、証人横山陽三の当公判廷における供述によれば一月九日両派の学生同志の実力衝突があり、多数の角材、石等で怪我人も出たこと、これがため総長代行の要請で機動隊が学内に導入されたこと、ついで翌一月一〇日には秩父宮ラグビー場における七学部集会があつて、そのさいにも、多数の反代々木系の学生がヘルメットに角材をもつておしかけたこと、当時これら衝突の模様などは、逐一テレビ、ラジオ等で報道され、また一方両派の学生では、互に全国動員をかけており、反代々木系学生は、一月一五日に全国学園闘争勝利労学総決起集会を開催し、事前にその招集ビラを各大学等に配布していたこと、そして一月一六日には総長代行名で所轄警察署長に対し出動要請がなされ、ついで一月一七日には学内者学外者を問わずいつさいの学内立入を禁止する掲示がなされるという異常に緊迫した状況になつたことがわかる。被告人らは、判示のように、全共闘を支援して、いずれも安田講堂にたてこもり、ここで逮捕されたのであるから右の客観状況を十分知つていたと推認するのが相当である。
2 安田講堂にたてこもつた学生は、右のように東大全共闘の闘争方針を支援するため、何らかのセクトに加わり、その闘争計画に従つてその指示にもとづいて行動していたと考えられること。すなわち、前掲軽部隆、村井隆、野口英夫ならびに笹川修治に対する検察官に対する各供述調書によると、分離前の相被告人佐渡は中核派全学連の副委員長であり、また被告人古根村は同派の幹部クラスの指導者であつて、いずれも法政大学の関係者であり、一方被告人板橋の検察官に対する供述調書によると、同被告人も同大学生として中核派のヘルメットをかぶつて行動していた、ということであるから、これら各被告人は、いずれも中核派のセクトに所属もしくは同調していたものであり、そしてその余の被告人はもとより、その他一般の東大生以外の外部の大学生は、当時東京大学の正門で、まずきびしい検問を受け、さらに安田講堂の入口でも同様反代々木系学生による検問を受け、そのさい自己の大学名と所属もしくは支持するセクト名を告ることなしでは、いつさい入ることを許されず、したがつて、ここで好むと好まざるにかかわらず、全共闘に共鳴する以上いずれかのセクトに分けられ、爾後それと行動をともにするようにされたことが認められる。
3 いずれかのセクトに加わつて本件闘争に入つた被告人および多数学生は、いずれも「軍団」と称する統制された組織を作り、対民青ないしは、間もなく排除活動に入る予定の機動隊に対し反撃態勢を作つていたこと。安田講堂内におけるこのような「軍団」組織による反撃態勢を示すものとして、司法警察員作成の前示検証調書によると、二階厚生掛室の壁に「中核第二軍団第五小隊」「東工大かく勇敢に戦えり!」「中核の部隊は最後……」「だが我々は玉砕の……」(写真60、61、62)、同学生部倉庫扉に、「中核」「詰所」(写真67、68)、三階北側会議室の壁に「東大天誅組」(写真20、21)、四階総長室入口に「救対本部」(写真1、2)、総長室秘書室から応接室への扉に「病室」(写真11)、第一会議室扉に「中核」(写真64)、四階北側廊下に「救対」を示す張紙(写真75)、五階厚生課調査室壁に「社学同は安田講堂を死守するぞ」「社学同」(写真4)、「Bund明大細胞、社学同明大支部」(写真6)、「中央社学同」「専大社学同」(写真12)、学術助成協会入口扉に「反帝学評」(写真17)、六階南側倉庫に「食糧倉庫」(写真22)、さらに食糧品の存在(写真23ないし28)、西側倉庫入口に「反帝学評」(写真29)、南側倉庫へのドアに「燃料倉庫手をつけるべからず、全闘連」(写真38)などの記載または状況を知ることができる。
また、この「軍団」組織による反撃態勢について、証人横山陽三は「全共闘による機動隊に対する予行演習はたびたび見ている、安田講堂の前でしたり、御殿下グラウンドでしたりしていた」旨述べており、軽部隆の検察官に対する供述調書(4425付)によると、「機動隊が東大構内に立入ることについて、中核の班編成をし、第一機動隊から第四か第五機動隊に分けられた。この班編成の呼び方を「第一機動隊」または「第一班」、「第一梯団」ともいい、一つの機動隊は人数にして約二〇人で、それぞれの守備位置につくことにした」、旨が述べられ、村井隆の検察官に対する供述調書(44127付(一))によると、「安田講堂にたてこもつた全部の学生の組織は、第一分団から第五分団までに分かれ、中核は第二分団になつていた。分団はセクト単位にしてあり、社学同が第一分団、社青同が第三分団で、中核の第二分団は第一小隊から第八小隊まであり、一小隊は約一五人位となり、各派の任務分担が定められていた」、「中核派の第二分団はゲバルト部隊である」、旨が述べられ、笹川修治も検察官に対し同様の軍隊組織類似の反撃組織が作られている趣旨を述べている。(同人の検察官に対する44128付四項参照)。
以上の事実と、前段2認定の事実から判断すると、安田講堂の入口で、きびしい検問を受けて何れかのセクトに加わることを告げて入ることを許された被告人らおよび多数の学生は、名称はともかくとして、戦闘部隊から食糧さらに救急医療、燃料にいたるまで区分された「軍団」組織に加わり、対民青ないしは、緊迫した機動隊導入に備えて厳重な反撃態勢を作つていたことは全く疑問の余地がない。
4 各被告人および多数学生の参加した各セクト間では、一月一四日すぎころから機会あるごとに集会を開き、ここで民青ないしは攻撃して来ると予測される機動隊に対する反撃態勢について謀議を尽し、被告人らにおいても、各セクトを通じ、この方針を知つていたと考えられること。
軽部隆(4425付、六、一四、一六、二九項)、村井隆(44127付(一)、一、三項、4426付、二ないし七項)、笹川修治(44124付三項、44128付八ないし一二項)の検察官に対する各供述調書によると、一月一四、五日ころから一七日までの間講堂内において各セクトの代表が数次にわたり連絡会議を開き、各セクトでもそれぞれリーダーのもとで集会を開いたこと、例えば、中核派は約一〇〇名ないし二〇〇名の学生ら全員が一月一四日ころから一七日夕刻までの間三階講堂において数回集会を開き、そのさい小隊の編成等をなし、リーダーである被告人古根村は「帝国主義的秩序のイデオロギーの場としての東大は粉砕するべきである。そのため最後まで戦かおう」などとアジ演説をし、これに参加した学生一同も機動隊の導入を必至とみて、「そうだ、そうだ」と同調していたこと、また被告人古根村は、大学当局の退去要求とこれに続く警察官の学内導入が緊迫したとの情勢判断に基き、一月一七日夜の集会で「これから最後の意思統一を行う、機動隊導入は必至となつた、最後まで頑張ろう」などと演説をし、一般学生は「異議なし」と連発し、一方中核派副委員長たる分離前の相被告人佐渡は中核派の役員として「おれ達のやつているのは暴力だ、しかしおれ達の意思を貫徹するため暴力は仕方がない」などと叫び、集会参加者は、一せいに「異議なし」、「そうだ、そうだ」などと答え、ここに退去要求がでても退去せず、排除のため出動した警察官に対して判示のように準備してある石塊、角材等の兇器を用いて、一致協力し、共同して暴行を加えて抵抗、反撃をする意思を固めたこと、そのころ同時に他のセクトでも各グループごとに三階講堂などで集会を開いたさい、右と同様の警察官に対する実力による抵抗態勢をつくつていたこと、なおこれら各セクトには連絡員もいて、相互の意思連絡をしていた事実があつたことなどの各事情が窺われる。
ところで、被告人板橋の検察官に対する供述調書によれば、同被告人が安田講堂に入つたのが一月一五日ということであるが、その余の各被告人が同講堂に入つた日時は、明確でない。ただ軽部隆の検察官に対する供述調書(4425付三項)によると、被告人らのように法政大学の学生約一〇名の者が、中核派のリーダーの指示で一月一三日午前一一時ころ安田講堂に入つたということであるから、被告人らの一部の者がそのころ入つたことも一応推測されるが、断定はできない。しかし、被告人らが、本件安田講堂内で一月一九日午後逮捕されたことおよび証拠上窺われる一月一七日夜の一般状況から判断して、右被告人らは、いずれも一月一七日の夜までにはここに入つていたと考えられる。安田講堂に入るさいの検問その他の状況は、まえに述べたとおりである。したがつて、講堂に入る以前の一月一四日ころから開かれた各セクトの前示集会に現実に参加しなかつた被告人らの一部の者ならびにその他の学生も、単独で孤立して行動していたものではなく、前段認定の事実と同人らがあくまで安田講堂を占拠し続けるとの東大全共闘の闘争方針に共鳴して参集した事実とを併わせて判断すると、前示各セクトでの謀議ないし機動隊に対する反撃態勢を十分了解させられていたと考えられる。
(なお、村井隆の検察官に対する供述調書(44128付、八項)中、本富士署四七号の男(被告人古根村)を集会で見かけなかつた趣旨に理解される部分は、前示笹川修治の検察官調書に対比して信用しない。)
5 講堂内の状況、ことに多数の投石用の石塊等が各階の窓際等に配置されていたことなどについて、ここに入つた被告人らおよび多数学生はすぐにそれに気づく状態にあつたこと。すなわち、前示司法警察員作成の検証調書によると、階段といわず、廊下の壁といわず、いたるところ大理石がはぎ取られて投石用の石塊等を作つた跡があり、また各窓際、廊下にも多数の石塊、コンクリート塊が配備されており、それにところどころに鉄パイプ、角材が集めてあり、一方火炎びん用の牛乳びん等もあることが認められる。これらは、講堂内の夥しいロッカーなどによるバリケード、さらに窓につくられた、外部よりの攻撃よけのベニヤ板(例えば、右検証調書中、135丁以下の写真67、68、69、71、73、79等を参照)とあわせて考えると、何びとも、すぐに、外部からの攻撃があつたばあい、これに応戦するためのものであることが理解される。前段2、3で説明したごとく、外部から安田講堂に入つた被告人らはじめ他の大学生らも、その例外と認めるべき、特別の事由がない。
6 そのご現実に投石等による公務執行妨害の実行が行なわれたこと。
7 なお、判示のように、被告人古根村は犯行中スピーカーで「投石部隊はもうすこし隊を組んで投石しろ」などと指揮をしたこと。
以上1ないし7の認定事実を総合して考察すると、被告人らには、いずれも判示第一(一)記載の段階において、被告人らを排除しようとする機動隊の警察員らに対し、共同して害を加える目的を生じていたものと認めることができる。
(2) 不退去の共謀と同罪の成立時期について。
前段において認定した被告人らの共同加害の目的は、その窮極の前提として、大学当局からたとえ正規の退去要求がなされても、これには応ぜず、したがつてこれを排除する警察官に実力で抵抗してまで安田講堂を死守してこれにたてこもることにあつた。このことは、前掲証拠の標目記載の各証拠と前段各認定事実から疑いの余地がない。すなわち、被告人らおよび他の多数占拠学生において相互に右の共同加害の目的が生じていた段階には、同時に本件安田講堂からの不退去の事前の意思連絡も成立していたことは明らかである。
ところで、不退去罪は、管理者または看守者から退去の要求がなされることを要件とし、かつその要求を受けながら正当の理由なく、これに応じないばあいに成立する。したがつて退去要求があつてもこれを知らないときは、不退去罪ということにならないとともに、いやしくもその要求のあつたことを知れば、その段階で要求を受けたことになり、爾後合理的な理由なく退去しない以上本罪の成立をまぬがれない。本件において、前示証拠によれば、加藤総長代行は、一月一七日午後一一時を期し、全共闘代表の今井澄に対し電話で安田講堂から全員退去するよう正式の退去要求をし、その旨を占拠中の被告人らを含む全員に伝達するように依頼をし、そのご翌一月一八日早朝になつてもこれら占拠学生が退去せず、けつきよく同朝午前七時ころから判示のように警視庁第五機動隊らによつて排除活動が開始されるにいたつた事実が認められるから、事実問題として、おおざつぱに言えば、占拠中の被告人ら全占拠学生は、おそくも右機動隊が出動して排除を始めた時点ころまでに右退去要求を知つたと認めてよいであろう。しかしながら本件では、占拠を貫徹しようとして、右のように事前の意思統一のもとにたてこもつた被告人ら全占拠学生は、たとえ当局から正規の退去要求があつても最初からこれを無視して退去しないことにしていた以上、いわゆる事前の不退去の共謀関係からして前記全共闘代表今井澄が退去要求を受け、同人が理由なく退去しなかつた段階において、その全員について不退去の共謀共同正犯として本罪の成立があつたというべきである。(最高裁昭和二四年二月二二日判決、刑集三巻二号一九三頁)
(四) 正当性(超法規的違法阻却事由)の存否について
(1) 弁護人ならびに被告人は、その主張の全体として終始一貫「一月一八、一九日の行動は、一個の集団による共通の目的に向けられた全体的なものであつた」ということを前提にして、いわゆる統一公判の要求をかかげつつ、その実質において「東大闘争に参加した被告人らは、何故あのような行動を選択しなければならなかつたか、ここにこそ本件裁判において究明されなければならない真実が存する、」とし、右両日における「学生たちの行動は、テレビ等を通じて全国に報道され、安田講堂から石や火炎びんが投ぜられた事実については、誰一人知らないものはない。このようにいわゆる政治的思想的集団行動は、各参加者が正当な行動であるという意識のもとに公然と行なうところに一つの重要な特色がある、」とし、そして「その行動の意味は起訴状に記載してあるような青年達個々の身体的動作に解体された行為の断片のなかに存在せず、」として被告人らの本件行為につき、これを全体として眺めたばあいに、そこに当然行為の正当性をみることができることを主張しているもののようである(この点は後記(2)で検討する)。ただ、弁護人は、被告人らの行為の正当性を論ずるにあたつては、たんなる従来のような違法性阻却事由の有無という論法で対処すべきでなく、「自分たちの行動の正当性をを貫ける場」において考えるべきであり、そのさい「自分たちの行動の正当性と逆にそこで明らかになつたもろもろの犯罪性、それらすべてを裁判の場に持ち出され、そのなかで自分たちの行動の正当な位置づけをして行なうべきものである、」趣旨を主張し、たんなる超法規的違法阻却事由の存否という議論を超えた、むしろ現行法体系そのものを前提としない、独自の立論を展開している(共闘会議の論理と法廷の論理参照)。しかしながら、かかる見解そのものは、むろん一つの政治的な主張として捉えることができても、けつして法廷の場において考察すべき正当な訴訟法的考え方とみることはできない。(この点、弁護人が本件において主張している統一公判の要求は、一見言葉のうえでは訴訟法上の表現を用いているが、その実は右の見解と表裏をなしていることは、当公判廷における弁護人の全主張からしても疑問の余地がない。)
(2) そこで、右の点について弁護人、被告人らが現行法規の枠内においても行為の正当性(超法規的違法阻却事由)の主張をしているものとして理解できる限度で以下念のため当裁判所の見解を示すこととする。
(イ) いわゆる超法規的違法阻却事由を現行法上認めることができるかどうか、それ自体が一つの問題とされる。しかし行為の違法性を実質的に理解し、社会共同生活の秩序と社会正義の理念に照し、その行為につき、動機ないし目的の正当性、手段の相当性、法益の均衡性さらに補充性が是認されるときは、たとえそれが正当防衛、緊急避難または自救行為の要件を充たさないばあいであつても、なお超法規的に犯罪の成立を阻却するものと解釈するのが相当である。ただ、それは社会正義の理念に適合し、法律全体の精神に反しないと考えられる、きわめて例外的なばあいに限られるべきであろう。
(ロ) ところで、前記証拠標目掲記の各証拠、なかんづく証人横山陽三の当公判廷における供述、笹川修治(四通)、野口英夫(一通)、軽部隆(二通)、村井隆(五通)の検察官に対する各供述調書を総合して、事件に関する一連の事態を考察すると、
1 (事件発生の遠因について)
まず、本件の遠因とも考えられる、いわゆる東大紛争の最初の発端は、昭和四三年一月医師のインターン制度その他の懸案について東京大学医学部自治会と教授会との話合が紛糾し、それが同学部のストライキに進展し、そのご春見事件と呼ばれる不祥事件も発生して、事態の解決がつかないまま同年六月第一回の安田講堂の占拠事件となり、そのさい東大全共闘系の学生側では、教授会に対し右懸案の諸問題について熱心に回答を要求していたのに、納得のいく措置もとられず、むしろ学生の処分については、十分な調査すらなく、事実誤認の資料に基いて一方的に処分されたとし、それがためついにいわゆる七項目要求を当局に突きつけるという事態にまでたちいたつたことにあつたと考えられる。右七項目については、その中心的項目は、医学部学生処分の白紙撤回のほか、安田講堂に対する機動隊導入の反省という重要問題もおりこまれていたが、そのご右処分問題に関し、医学部の一学生のみについてその処分を事実上撤回するという趣旨の医学部長よりの声明(東大問題資料2、四〇五頁参照)が発表されただけで、その余について、さしづめこれという対策もなく遷延し、そのため事態はいよい解決困難な方向に進んだものと考えられる。
2 (事件の直接契機について)
そのころ、これらの問題をめぐり事態は全学的な紛争状態となり、いわゆる反代々木系の学生集団では全学共闘会議を結成して大学当局との闘争態勢を固め、同年七月二日ころから再度安田講堂を封鎖占拠し、そのまま夏期休暇となつたが、大学当局においては、その間いわゆる八・一〇告示を発表し、これを全東大生に郵送し、そのなかで前記一名の医学生を除くその余の一一名の処分学生の問題をニュートラルな委員会の処置にまかすこと、またさる六月一七日の警察官導入問題に関しても今後慎重を期すること、さらに将来の大学管理運営をはじめ大学制度全般については再検討を加えることなどを正式に大学当局の見解として表明して、紛争解決の糸口にしようと努力したものの、かえつて一層激しい反発を買い、そのころから右学生集団に反対する、いわゆる民青系と呼ばれる学生集団は、自主防衛と称して全共闘系の学生と同様に未封鎖の学内建物の占拠を始めるにいたり、ここにこれら対立する二大勢力は、互に大学改革を訴えつつ相手を非難するうちに紛争はさらに拡大し、険悪化するにいたつた。右両派は、ともに大学の現体制に対する批判をし、その根本的改革を標榜していたことは同様であるけれども、全共闘系は、あくまで自主的かつ主動的立場を固執して前記七項目要求の貫徹を主張し、いわゆる民青系の学生が大学当局の呼びかけに応じて昭和四四年一月一〇日秩父宮ラグビー場の七学部集会でいわゆる一〇項目確認書を取りつけるという柔軟な戦術をとつたのに対し、これと全く対照的に強硬な態勢を堅持しつづけ、その前日たる一月九日には、両派の間に投石、殴打等激しい暴力による衝突事件までひきおこした。そのころ、すでに他大学の学生、労働者らも学内に立ち入り、これらの対立抗争は、もはや学内の派閥闘争にとどまらず、治安問題の様相すら帯びるようになり、同月一五日を期し全共闘系学生集団が全国学園闘争勝利労学総決起集会を目論んで自派の学生の全国動員をかけ、一方民青系もこれに対抗して同様の処置に出て、まさに一触即発という険悪な情勢となつた。これがため大学当局は、その前日の一月一四日には学外者の立入を禁止して一応衝突の回避を得たものの、さらに両派の激突とそのころすでに予想された機動隊の導入に備えて徹底抗戦を企図する全共闘系学生集団の不穏な動きに対処して同月一六日所轄本富士警察署長に対し警察官の出動方を要請し、ついで翌一月一七日午後一一時を期し、学内者、学外者を問わずその立入りを禁止するとともに兇器、危険物の搬入を切一厳禁する措置をとるにいたつた。このように大学の管理運営等大学問題の根本的解決をめぐり、右二つの学生集団の間にいわば主導権争いを生じ、それが相互の実力衝突となり、さらにその続発の危険があるという緊迫した情勢となつたため大学当局がこれら激突回避の必要上やむなく警察力導入の措置に出た点に本件ぼつ発の直接の契機があつたと認められる。
3 (行動の目的につき)
被告人らの本件行為に出た意図は判示認定のとおりである。被告人らとその心情を同じくする全共闘系の学生は、とりわけ東大全共闘系の学生において、当初大学制度の改革という真面目で純粋な問題に取り組みながら本件発生にいたつた直前の段階では東京大学自体の解体、さらには社会改革、革命すら口にし、「東京大学が支配者階級の養成所として日本の反動と侵略のかげの貢献をして来た。日本の帝国主義的秩序のイデオロギーの場となつて来た。東大の帝国主義的秩序を粉砕するべきである。」といい、「東大闘争の象徴たる安田講堂を我々人民の手で守り、それを行動で示し、世間に訴える。」とし、あるいは「七項目要求遂行のためには退去命令に応ぜず、警察官に抵抗するのもやむを得ない。」と主張した。被告人らは、いずれも法政大学の学生であつて直接大学の学内紛争と関係がないようであるが、その底流となつているものについては、いずれもそこに共通の問題意識をもつとしている。
(ハ) 以上の認定事実ならびに判示認定事実を総合して考察すると、被告人らの本件行為の目的意識のうちには、一部大学制度の矛盾をつき、その正しい位置づけを究明するという、青年らしい義務感にも似たものもあつたが、犯行に及んださいには、いつさいの権力に抵抗し、現体制そのものの否定すら叫んで、無茶苦茶に手当り次第に大学の諸施設を破壊し、警察権力に対する暴力による徹底抗戦を企図したものであり、その意図の危険性といい、無謀さといい、とうてい正当なものではなく、また要求項目貫徹のための手段としても判示認定のような破壊的手段、暴力的手段によることは、何ぴとも是認しないところである。被告人らは血気にはやり、ことにその共鳴する全共闘系の主張では、「『秩序より破壊を』が仮借なきまでに貫徹されねばならない」などと「破壊の論理」を叫ぶ。これは、むろんそのまま、いわゆる物理的破壊しかも素朴でむき出しの思想をいうのでないにしても、目的のためには手段を選ばぬ考えに通じる。このようなことは、社会正義上も法律全体の精神からいつても、とうてい相当性があるということができない。また被告人らの今回の行為は、法益均衡、行為の補充性という観点からしても、性急にはやりすぎた被告人らの主観的な心情はともかく、客観的かつ合理的に評価して、とうていこれを是認することができない。
被告人らの本件行為は、証拠上諸般の観点より、弁護人、被告人のいつさいの主張をくまなく検討しても、これを超法規的にその違法性を阻却する社会的に正当な行為ではないというべきである。
(五) 量刑の事情
本件は、社会の急速な進展に適応するに必要な諸改革を怠るなどのために累積した大学制度の諸問題点に対する自覚、ならびに、これをこれ以上一刻も放置できないという危機感から発し、その根本的改革を目指そうとしたことにも一部の動機があつたとみられるが、本件行為そのものは、前掲(四)に示したとおり、違法なものであり、ことにその手段を選ばないという暴力的な点はとうてい何ぴとも許容しないところである。
被告人らは、本件の大学大講堂をあくまで占拠しようと考え、三百数十名の学生とともに、いわゆる「軍団」組織をつくつて、警察官に対する頑強な反撃態勢を組み、大量の石塊、火炎びん、角材、鉄パイプ、さらには危険な劇薬等を準備し、他方食糧、医療器材等の用意までして、徹底した抵抗を計画してこれを実行した。その結果莫大な国家財産の損失を招来させたばかりでなく、多くの学友、後輩に回復することのできない勉学研究の機会を失わせることともなつた。これに対する被告人らの責任はきわめて重大である。被告人らをして本件にいたらせた信念が現行法秩序に対する理想的批判的価値評価に基盤をもつということから直ちにその責任を寛大視することはできない。
一方、被告人らは、本件で起訴されるや、早くから統一公判の要求をかかげ裁判所からの説得にも応ぜず、自己の信念を楯にいつさいの正当な公権的判断、措置に反抗し、出廷拒否戦術などの法廷闘争を展開し、自ら訴訟の当事者となつて、有利な情状なども全く提出していない。したがつて当然のことながら被告人側の有利な証拠として斟酌すべきものは原則として存在しない。
被告人古根村は、中核派の幹部クラスのリーダーであつて、同派の学生らを強力な指導力で掌握して本件にいたらせ、また自らも多くの火炎びんを投げつけるなどしたものであつて、その責任は重い。その他の被告人は、いずれも法政大学の学生として、被告人古根村ら指導者の影響下に身を置き、他の者らとともに判示のようなきわめて激しい行動に走つたもので、その責任は大きい。しかも被告人中原、同早野を除いては、各自将来の反省を期待できる生活環境にはない。
ところで被告人中原、同早野は、ともに当公判廷において反省を明白にはしていない。その点は他の被告人らと異なるところがない。しかしながら被告人中原については、その実父の証言によれば、その家庭環境が同被告人のため十分期待できると認められ、一方同被告人には前科歴がなく、両親の熱心な指導下におくときは、必ずや同被告人は自覚するものと考えられる。また、被告人早野は、本件に加担したとはいえ、女性であつて直接警察官に対し投石などの暴行を敢行したものとはおもわれず、今回の裁判が終了したおりにはやがて自己の行為のおろかさに気づき、早晩その反省をするものと期待される。以上の諸点に徴し、各被告人に対し主文のとおり量刑することとした。
(六) 法令の適用
(1) 事実
判示第一(一)につき(被告人全員)
刑法二〇八条の二、一項後段、罰金等臨時措置法三条一項一号(懲役刑選択)
判示第一(二)につき(被告人全員)
刑法一三〇条後段、罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法六〇条(懲役刑選択)
判示第二につき(被告人早野を除く)
刑法九五条一項、六〇条(懲役刑選択)
(2) 併合罪の加重
刑法四五条前段、四七条本文、一〇条(被告人早野を除く、その余の各被告人については最も重い判示第二の罪の刑に被告人早野については重い判示第一(二)の罪の刑にそれぞれ法定の加重をする。)
(3) 未決勾留日数の算入
刑法二一条(被告人全員)
(4) 刑の執行猶予
刑法二五条一項(前示量刑事由にかんがみ、とくに被告人中原、同早野についてのみ主文掲記のとおり刑の執行を猶予する。)
(5) 訴訟費用
刑事訴訟法一八一条一項本文(被告人全員につき、これを一三分し、その一を各被人に負担させる。)
(向井哲次郎 本吉邦夫 田尾健二郎)